34. 若菜上(24首)
1. さしながら 昔を今に 伝ふれば 玉の小櫛ぞ 神さびにける
2. さしつぎに 見るものにもが 万世を 黄楊の小櫛の 神さぶるまで
3. 若葉さす 野辺の小松を 引き連れて もとの岩根を 祈る今日かな
4. 小松原 末の齢に 引かれてや 野辺の若菜も 年を摘むべき
5. 目に近く 移れば変はる 世の中を 行く末遠く 頼みけるかな
6. 命こそ 絶ゆとも絶えめ 定めなき 世の常ならぬ 仲の契りを
7. 中道を 隔つるほどは なけれども 心乱るる 今朝のあは雪
8. はかなくて うはの空にぞ 消えぬべき 風にただよふ 春のあは雪
9. 背きにし この世に残る 心こそ 入る山路の ほだしなりけれ
10. 背く世の うしろめたくは さりがたき ほだしをしひて かけな離れそ
11. 年月を なかに隔てて 逢坂の さも塞きがたく 落つる涙か
12. 涙のみ 塞きとめがたき 清水にて ゆき逢ふ道は はやく絶えにき
13. 沈みしも 忘れぬものを こりずまに 身も投げつべき 宿の藤波
14. 身を投げむ 淵もまことの 淵ならで かけじやさらに こりずまの波
15. 身に近く 秋や来ぬらむ 見るままに 青葉の山も 移ろひにけり
16. 水鳥の 青羽は色も 変はらぬを 萩の下こそ けしきことなれ
17. 老の波 かひある浦に 立ち出でて しほたるる海人を 誰れかとがめむ
18. しほたるる 海人を波路の しるべにて 尋ねも見ばや 浜の苫屋を
19. 世を捨てて 明石の浦に 住む人も 心の闇は はるけしもせじ
20. 光出でむ 暁近く なりにけり 今ぞ見し世の 夢語りする
21. いかなれば 花に木づたふ 鴬の 桜をわきて ねぐらとはせぬ
22. 深山木に ねぐら定むる はこ鳥も いかでか花の 色に飽くべき
23. よそに見て 折らぬ嘆きは しげれども なごり恋しき 花の夕かげ
24. いまさらに 色にな出でそ 山桜 およばぬ枝に 心かけきと
35. 若菜下(18首)
1. 恋ひわぶる 人のかたみと 手ならせば なれよ何とて 鳴く音なるらむ
2. 誰れかまた 心を知りて 住吉の 神代を経たる 松にこと問ふ
3. 住の江を いけるかひある 渚とは 年経る尼も 今日や知るらむ
4. 昔こそ まづ忘られね 住吉の 神のしるしを 見るにつけても
5. 住の江の 松に夜深く 置く霜は 神の掛けたる 木綿鬘かも
6. 神人の 手に取りもたる 榊葉に 木綿かけ添ふる 深き夜の霜
7. 祝子が 木綿うちまがひ 置く霜は げにいちじるき 神のしるしか
8. 起きてゆく 空も知られぬ 明けぐれに いづくの露の かかる袖なり
9. 明けぐれの 空に憂き身は 消えななむ 夢なりけりと 見てもやむべく
10. 悔しくぞ 摘み犯しける 葵草 神の許せる かざしならぬに
11. もろかづら 落葉を何に 拾ひけむ 名は睦ましき かざしなれども
12. わが身こそ あらぬさまなれ それながら そらおぼれする 君は君なり
13. 消え止まる ほどやは経べき たまさかに 蓮の露の かかるばかりを
14. 契り置かむ この世ならでも 蓮葉に 玉ゐる露の 心隔つな
15. 夕露に 袖濡らせとや ひぐらしの 鳴くを聞く聞く 起きて行くらむ
16. 待つ里も いかが聞くらむ 方がたに 心騒がす ひぐらしの声
17. 海人の世を よそに聞かめや 須磨の浦に 藻塩垂れしも 誰れならなくに
18. 海人舟に いかがは思ひ おくれけむ 明石の浦に いさりせし君
36. 柏木(11首)
1. 今はとて 燃えむ煙も むすぼほれ 絶えぬ思ひの なほや残らむ
2. 立ち添ひて 消えやしなまし 憂きことを 思ひ乱るる 煙比べに
3. 行方なき 空の煙と なりぬとも 思ふあたりを 立ちは離れじ
4. 誰が世にか 種は蒔きしと 人問はば いかが岩根の 松は答へむ
5. 時しあれば 変はらぬ色に 匂ひけり 片枝枯れにし 宿の桜も
6. この春は 柳の芽にぞ 玉はぬく 咲き散る花の 行方知らねば
7. 木の下の 雫に濡れて さかさまに 霞の衣 着たる春かな
8. 亡き人も 思はざりけむ うち捨てて 夕べの霞 君着たれとは
9. 恨めしや 霞の衣 誰れ着よと 春よりさきに 花の散りけむ
10. ことならば 馴らしの枝に ならさなむ 葉守の神の 許しありきと
11. 柏木に 葉守の神は まさずとも 人ならすべき 宿の梢か
37. 横笛(8首)
1. 世を別れ 入りなむ道は おくるとも 同じところを 君も尋ねよ
2. 憂き世には あらぬところの ゆかしくて 背く山路に 思ひこそ入れ
3. 憂き節も 忘れずながら 呉竹の こは捨て難き ものにぞありける
4. ことに出でて 言はぬも言ふに まさるとは 人に恥ぢたる けしきをぞ見る
5. 深き夜の あはればかりは 聞きわけど ことより顔に えやは弾きける
6. 露しげき むぐらの宿に いにしへの 秋に変はらぬ 虫の声かな
7. 横笛の 調べはことに 変はらぬを むなしくなりし 音こそ尽きせね
8. 笛竹に 吹き寄る風の ことならば 末の世長き ねに伝へなむ
38. 鈴虫(6首)
1. 蓮葉を 同じ台と 契りおきて 露の分かるる 今日ぞ悲しき
2. 隔てなく 蓮の宿を 契りても 君が心や 住まじとすらむ
3. おほかたの 秋をば憂しと 知りにしを ふり捨てがたき 鈴虫の声
4. 心もて 草の宿りを 厭へども なほ鈴虫の 声ぞふりせぬ
5. 雲の上を かけ離れたる すみかにも もの忘れせぬ 秋の夜の月
6. 月影は 同じ雲居に 見えながら わが宿からの 秋ぞ変はれる
39. 夕霧(26首)
1. 山里の あはれを添ふる 夕霧に 立ち出でむ空も なき心地して
2. 山賤の 籬をこめて 立つ霧も 心そらなる 人はとどめず
3. 我のみや 憂き世を知れる ためしにて 濡れそふ袖の 名を朽たすべき
4. おほかたは 我濡衣を 着せずとも 朽ちにし袖の 名やは隠るる
5. 荻原や 軒端の露に そぼちつつ 八重立つ霧を 分けぞ行くべき
6. 分け行かむ 草葉の露を かことにて なほ濡衣を かけむとや思ふ
7. 魂を つれなき袖に 留めおきて わが心から 惑はるるかな
8. せくからに 浅さぞ見えむ 山川の 流れての名を つつみ果てずは
9. 女郎花 萎るる野辺を いづことて 一夜ばかりの 宿を借りけむ
10. 秋の野の 草の茂みは 分けしかど 仮寝の枕 結びやはせし
11. あはれをも いかに知りてか 慰めむ あるや恋しき 亡きや悲しき
12. いづれとか 分きて眺めむ 消えかへる 露も草葉の うへと見ぬ世を
13. 里遠み 小野の篠原 わけて来て 我も鹿こそ 声も惜しまね
14. 藤衣 露けき秋の 山人は 鹿の鳴く音に 音をぞ添へつる
15. 見し人の 影澄み果てぬ 池水に ひとり宿守る 秋の夜の月
16. いつとかは おどろかすべき 明けぬ夜の 夢覚めてとか 言ひしひとこと
17. 朝夕に 泣く音を立つる 小野山は 絶えぬ涙や 音無の滝
18. のぼりにし 峰の煙に たちまじり 思はぬ方に なびかずもがな
19. 恋しさの 慰めがたき 形見にて 涙にくもる 玉の筥かな
20. 怨みわび 胸あきがたき 冬の夜に また鎖しまさる 関の岩門
21. 馴るる身を 恨むるよりは 松島の 海人の衣に 裁ちやかへまし
22. 松島の 海人の濡衣 なれぬとて 脱ぎ替へつてふ 名を立ためやは
23. 契りあれや 君を心に とどめおきて あはれと思ふ 恨めしと聞く
24. 何ゆゑか 世に数ならぬ 身ひとつを 憂しとも思ひ かなしとも聞く
25. 数ならば 身に知られまし 世の憂さを 人のためにも 濡らす袖かな
26. 人の世の 憂きをあはれと 見しかども 身にかへむとは 思はざりしを
40. 御法(12首)
1. 惜しからぬ この身ながらも かぎりとて 薪尽きなむ ことの悲しさ
2. 薪こる 思ひは今日を 初めにて この世に願ふ 法ぞはるけき
3. 絶えぬべき 御法ながらぞ 頼まるる 世々にと結ぶ 中の契りを
4. 結びおく 契りは絶えじ おほかたの 残りすくなき 御法なりとも
5. おくと見る ほどぞはかなき ともすれば 風に乱るる 萩のうは露
6. ややもせば 消えをあらそふ 露の世に 後れ先だつ ほど経ずもがな
7. 秋風に しばしとまらぬ 露の世を 誰れか草葉の うへとのみ見む
8. いにしへの 秋の夕べの 恋しきに 今はと見えし 明けぐれの夢
9. いにしへの 秋さへ今の 心地して 濡れにし袖に 露ぞおきそふ
10. 露けさは 昔今とも おもほえず おほかた秋の 夜こそつらけれ
11. 枯れ果つる 野辺を憂しとや 亡き人の 秋に心を とどめざりけむ
12. 昇りにし 雲居ながらも かへり見よ われ飽きはてぬ 常ならぬ世に
41. 幻(26首)
1. わが宿は 花もてはやす 人もなし 何にか春の たづね来つらむ
2. 香をとめて 来つるかひなく おほかたの 花のたよりと 言ひやなすべき
3. 憂き世には 雪消えなむと 思ひつつ 思ひの外に なほぞほどふる
4. 植ゑて見し 花のあるじも なき宿に 知らず顔にて 来ゐる鴬
5. 今はとて 荒らしや果てむ 亡き人の 心とどめし 春の垣根を
6. なくなくも 帰りにしかな 仮の世は いづこもつひの 常世ならぬに
7. 雁がゐし 苗代水の 絶えしより 映りし花の 影をだに見ず
8. 夏衣 裁ち替へてける 今日ばかり 古き思ひも すすみやはせぬ
9. 羽衣の 薄きに変はる 今日よりは 空蝉の世ぞ いとど悲しき
10. さもこそは よるべの水に 水草ゐめ 今日のかざしよ 名さへ忘るる
11. おほかたは 思ひ捨ててし 世なれども 葵はなほや 摘みをかすべき
12. 亡き人を 偲ぶる宵の 村雨に 濡れてや来つる 山ほととぎす
13. ほととぎす 君につてなむ ふるさとの 花橘は 今ぞ盛りと
14. つれづれと わが泣き暮らす 夏の日を かことがましき 虫の声かな
15. 夜を知る 蛍を見ても 悲しきは 時ぞともなき 思ひなりけり
16. 七夕の 逢ふ瀬は雲の よそに見て 別れの庭に 露ぞおきそふ
17. 君恋ふる 涙は際も なきものを 今日をば何の 果てといふらむ
18. 人恋ふる わが身も末に なりゆけど 残り多かる 涙なりけり
19. もろともに おきゐし菊の 白露も 一人袂に かかる秋かな
20. 大空を かよふ幻 夢にだに 見えこぬ魂の 行方たづねよ
21. 宮人は 豊明と いそぐ今日 日影も知らで 暮らしつるかな
22. 死出の山 越えにし人を 慕ふとて 跡を見つつも なほ惑ふかな
23. かきつめて 見るもかひなし 藻塩草 同じ雲居の 煙とをなれ
24. 春までの 命も知らず 雪のうちに 色づく梅を 今日かざしてむ
25. 千世の春 見るべき花と 祈りおきて わが身ぞ雪と ともにふりぬる
26. もの思ふと 過ぐる月日も 知らぬまに 年もわが世も 今日や尽きぬる